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知里真志保 [北海道]

 今日(2007/1/30)、月忌参りにいったご門徒のお宅での話。何の話からそこにたどり着いたのかは全く思い出せないのですが、そのご門徒(私より年上)のお父さんの時代、知里真志保が自宅に泊まったことがあり、加えてお父さんと知里真志保は文通をしていた、という興味津々の話になりました。もちろん私は、知里真志保を超有名な人であるから知っているし、その姉である知里幸恵について旭川にいるときに興味を持って藤本英夫著の「銀のしずく降る降るまわりに・・・知里幸恵の生涯」を購入(今も持っている)、感激をもって読了したことをも思い出したのでした。
 そのときに加えて、知里真志保は室蘭中学(今の室蘭栄高)のとき、ほとんど学校には行かず(たぶん超貧乏だったので働いていたのではないか?)、しかし試験の時は出てきて、成績は常にトップだったという話まで聞いてしまいました。帰宅して、すぐ「銀のしずく・・・・」を取り出し、これから再読するつもりです。

WIKIPEDIAから
知里真志保
知里真志保(ちり ましほ、1909年2月24日 - 1961年6月9日)は、アイヌの言語学者。文学博士。専攻はアイヌ語学。姉は、『アイヌ神謡集』の著者・知里幸恵。大学での指導教授は、金田一京助。北海道幌別町字登別町(現在の登別市)出身。

知里幸恵
知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年6月8日 - 1922年9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ人女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。なお、弟に言語学者でアイヌ人初の北海道大学教授となった知里真志保がおり、幸恵の『アイヌ神謡集』の出版以降、大正末期から昭和にかけて、新聞・雑誌などからはこの姉弟を世俗的表現ながらも「アイヌの天才姉弟」と評された。

WEBから
藤本英夫著:『知里真志保の生涯』(新潮選書)

知里家の家系図
 祖母:金成モナシノウク ― 叔母:(金成)マツ
               母:(知里)ナミ ― 姉:(知里)幸恵
                             (知里)真志保

祖母金成モナシノウクと叔母マツ
 金成モナシノウクは金田一京助が「アイヌ最大の最後の叙事詩人」と賛辞を 惜しまなかった人である。彼女はアイヌ民族の膨大な叙事詩(ユーカラ)を 暗唱していた。叔母の金成マツはモナシノウクのユーカラを記憶し、昭和3年からローマ字で記録した。 そのまとめたノートは、70冊をこえ、一万数千ページにもなった。 その一部は金田一京助によって、「アイヌ叙事詩ユーカラ集」一巻 (昭和34年)から七巻(昭和41年)として刊行された。昭和31年、81歳のとき、ユーカラの数少ない伝承保持者として紫綬褒章をうけている。

薄命の天才少女、知里幸恵(ちり・ゆきえ)
 知里家は登別で生活していたが、姉の知里幸恵は一時、旭川の祖母金成モナシノウクと叔母の金成マツ のところに身をよせる。大正7年、ユーカラを聞きにきた金田一京助と運命的 出会いをする。金田一京助からユーカラの素晴らしさをおしえられた幸恵は そのときまだ15歳の少女であったが、生涯をユーカラに捧げることを決意する。 叔母のマツからローマ字を習い、一年後、ユーカラのローマ字記録と美しい日本語訳 のノートを金田一に送る。金田一が、「あまりの立派な出来で、わたしは涙がこぼれるほど 喜んでおります。」という返事の手紙を書いたほどであった。その後もノート をかきつづけ、本として出版するために大正11年、19歳のとき、金田一のもとに上京する。 もともと、体の弱かった幸恵は体調をくずし、最後の校正を終えると容態が急変 帰らぬ人となる。幸恵の命をかけた「アイヌ神謡集」は翌年出版されました。 その序文に彼女はつぎのように書いています。

 「その昔この広い北海道は、私達祖先の自由な天地でありました。天真爛漫な稚児 のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、 真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。
          ・・・・・
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野 は村に、村は町にと次第次第に開けてゆく。」
 
天才言語学者、知里真志保(ちり・ましほ)
 姉の幸恵が亡くなった翌年、6歳年下の真志保は室蘭中学に入学する。 子供時代はアイヌを蔑視する和人とよくトラブルをおこしたが、中学時代は せいぜい、にらみつける程度であったという。学校の成績は優秀で、この中学時代(昭和2年)に アイヌの昔話の和訳を中学の先生からたのまれ、雑誌に発表している。これが彼の 最初のアイヌ語に関する論文である。 金田一は「幸恵さんの再来のやうに思えて、一行一行涙の目を押拭ひつつ よまれた」と紹介している。卒業後、金田一と相談し一高を受験、合格する。 新入生の自己紹介のとき、「北海道ならアイヌを見たかい」と問われたのに 対し、「このおれがアイヌだよ。」と身を乗り出したという。 エリート集団の中の彼は級友となじめなかった。東京の異邦人であった。 成績は優秀で、英語、ドイツ語は主席、ロシア語、スペイン語も数週間で 初歩的な原書は読めるようになるほど、ずばぬけた語学力であった。
 一高卒業後、東大文学部英文科に入学する。「アイヌ語をやらせるのは 惜しい」との周囲の声があったという。だが、翌年、言語学科に転科、 金田一の指導をうけることになる。卒業時には金田一と肩をならべるほど の実力を備えていた。そのまま東大に残る道もあったが、真志保は卒業すると、 中学時代の恩師の頼みを受け、樺太の女学校に赴任する。そこで彼は樺太アイヌ の研究に没頭する。しかし、持病の心臓病がおもわしくなく、3年で、退職、 周囲の骨折りもあり、以後北大で研究をつづけることになった。

 彼のアイヌ語に対する姿勢は厳格であった。過去のアイヌ語の研究者、同世代 の研究者はもとより恩師金田一に対しても鋭い批判をあびせた。彼の代表的著書 のひとつ「アイヌ語入門」では多くのページを過去の研究者の批判にあてている。 そしてあとがきには「アイヌ研究を正しい軌道にのせるために!」 と、叫ぶように書き、「この本を書いた私の願いは、ただそれだけに尽きるのである」 と、祈るように筆をおいている。彼はアイヌをどうみていたのでしょう?「多くの人々 は民族文化の保存といいますが、現実にはアイヌ文化は明治以前に滅びてしまって、 そのあとはいわばアイヌ系日本人によってその文化が多少とも保たれてきたわけ でです。」と言うように、「おれがアイヌだ。」と叫ぶ彼も、日本人として育ち 、アイヌ語も英語と同じように外国語であり、自分自身も「アイヌ系日本人」である ことにある種の悲しみを持っていたように思う。「啄木じゃないが、学問は 悲しき玩具さ」と自嘲する裏に、もう復活することのないアイヌ文化に対する さびしさと、それゆえに本当のアイヌ文化を記録しておこうとしていた彼の切なる 思いが伝わってくる。それは彼が登別の海岸を思い浮かべて歌ったという 「浜辺の歌」の歌詞の「昔のこと」「昔の人」でしのんでいた ものであろう。

 彼は研究の半ば、52歳で生涯を終えた。彼の葬儀にかけつけた79歳の恩師金田一 は深い悲しみに憔悴しきっていたという。金田一博士の詠んだ歌。

    おほし立てて 我が後継ぎと たのめりし
    若人はかなく 我に先立つ

    若人の 先立つ嘆き できるなら
    老いたる我の 代わりたかりし
 
 
ファーム富田 2016年7月21日 
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朱鞠内湖のワカサギ釣り [北海道]

 昨日(2017.1.24)は朝から、今冬初めてマイナス30度を超えたと、本州日本海側の記録的大雪と併せて、テレビやラジオは大騒ぎでした。その中でも、残念ながら!!2位でしたが-32.1度だった朱鞠内湖(幌加内町)は、その寒さの中でワカサギ釣りをしている様子を、全国放送で何度も何度も紹介されました。冬の朱鞠内湖は、すっかりワカサギ釣りで有名になりました。一度ワカサギ釣りに行ってみたいけれど、冬のドライブには遠すぎるなァ。
  冬の朱鞠内こといえば、先日、さっぽろ生協が毎月発行する料理の小冊子に、今の朱鞠内湖を紹介する記事が出ていることを発見し、思わず岡山に住む朱鞠内小学校時代の恩師に送ってしまいました。きっと、昨日は全国放送で何度も放送されたので、今年は朱鞠内がすごい!とびっくりしていることでしょう。
 
写真は昨12月10日の大雪の様子です。
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折々のことば [その他]

 早いですね。日常に戻ってボンヤリ過ごしていると、もう1月も終盤になってしまいました。12月は大雪に2回もおそわれましたが、年末年始は穏やかに過ぎ、その後も全国規模での大雪でテレビでは大騒ぎですが、札幌は比較的静かで、お出かけ(仕事で)もいつもより楽な気がします。
 1月20日にはアメリカの大統領がオバマからトランプに替わり、テレビは大騒ぎです。私には、よく分かりませんが、時代が逆行しているような気のする新大統領の言行です。日本などは相手にもされなくなるような気もします。だからといって、すり寄るのではなく、本当の意味での自主独立の国作りをすべきですし、それに最適の情勢ではないでしょうか?
 

朝日新聞連載『鷲田清一「折々のことば」』
 朝日新聞朝刊一面にもうすでに今日で645回も連載されているコラム記事があります。
その中から、特に特に!心に響いた「ことば」を三つ紹介します。

1.「祓(はら)いのけることはしないで、穢(けが)れたままで救うということ、これを私は愛と言い慈悲というのです。」 鈴木大拙

 救われんとすればこれこれの条件を満たす必要がある、と言うのでなく、そのままでいいと、傷や汚れやあがきごと抱擁すること。それが「慈悲」だと仏教学者は言う。他の人に向かい、何の条件も付すことなく、ただ「いるだけでいい」と言えるかどうか。宗教の信は一にそこに懸かっている。安藤礼二編「折口信夫対話集」から。(鷲田清一)

2.「悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」 正岡子規

 俳人にとって悟りとはいつでも平気で死ねることではなく、生をひたすら愛(め)でることであった。激痛にのたうちまわるなかでも、弟子たちを頻繁に迎えた。薬や麻痺(まひ)剤を服用する一方で、パン、スープ、鶏卵、刺し身、焼き物、飯と三食しっかり食べ、間に牛乳や菓子パンも。死の直前まで床で画譜画帖(がじょう)を楽しみ、絵筆をとり、料理や社会情勢・教育を論じた。「病牀(びょうしょう)六尺」から。(鷲田清一)

3.「「何のために」人間は生きるかという問い……を拒否することが〈生きる〉ということの現実性だというだけです。」 吉本隆明

 「何のために」と問う前に、人はすでに現実の内にどっぷり浸(つ)かっている。全体を見通せず、またたやすくは足を抜けない場所に立っている。人には泣く泣くせざるをえないこと、「なしくずしにずるずると」生きざるをえないこともあり、なぜそうなるのかを問うほうが先だと詩人・思想家は言う。「どこに思想の根拠をおくか」から。(鷲田清一)
 
昨年6月初めの三島市内の小学校の運動会です。
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ご挨拶 [その他]

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 家族全員が集まって、賑やかな新年を迎えることができました。感謝!!!

 今年もよろしくお願いいたします。

 2017年 元旦 


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